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ヒルマ・アフ・クリント展
Takuya Neda

心に響く色と形、アジア初開催『ヒルマ・アフ・クリント展』リポート

ヒルマ・アフ・クリントについて、財団のキーパーソンにインタビュー。

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パステルカラーの画面に螺旋や花びらのようなものなど、不思議な形態が踊る絵画。2010年代以降、世界各地で開かれている展覧会で大きな注目を集めるスウェーデンの画家、ヒルマ・アフ・クリントの作品だ。その彼女の個展『ヒルマ・アフ・クリント展』が東京で開かれている。日本はもちろん、アジアでも初めてとなる待望の展覧会になる。

ヒルマ・アフ・クリントとは? アジア初の大回顧展前に知っておきたいこと

ヒルマアフクリント
ヒルマ・アフ・クリント、ハムガータン(ストックホルム)のスタジオにて、1902年頃  ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of The Hilma af Klint Foundation

ヒルマ・アフ・クリントは1862年、ストックホルム生まれ。同地の王立芸術アカデミーを優秀な成績で卒業、伝統的な表現による肖像画や風景画で多くのクライアントを抱え、商業画家として成功を収めていた。

ヒルマアフクリント
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<写真>初期の花のスケッチ。ヒルマ・アフ・クリントの観察眼と技量がうかがえる。『ヒルマ・アフ・クリント展』展示風景、東京国立近代美術館、2025年

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<写真>アフ・クリントは児童書の挿絵も手掛けていた。裏(写真右)には後に彼女が傾倒するスピリチュアリズムなどでの自動筆記のような線が描かれている。《スケッチ、子どもたちのいる農場[『てんとう虫のマリア』]》ヒルマ・アフ・クリント財団









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その一方で彼女はスピリチュアリズムや神智学、人智学といった目に見えないもの、精神的な存在を扱う思想に惹かれていく。1896年にアフ・クリントは4人の女性たちとともにグループ「5人(De Fem)」を結成し、交霊会などを行うようになった。売るための具象的な絵画と並行して彼女は、神智学などでいう「高次な存在」からのメッセージを表現し、伝えるための絵画を描き始める。それは螺旋や円、三角形、植物の一部に見えるモチーフなどで構成された抽象的な絵画だった。

<写真>「5人」のメンバーが描いた絵画。トランス状態で見たビジョンを描いたものかと思われる。「5人」のうち誰が描いたのか、誰と誰の共作なのかといったことははっきりしない。3点とも「5人」《無題》1908年 ヒルマ・アフ・クリント財団

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<写真>アフ・クリントは1906年から「神殿のための絵画」と呼ばれる絵画の制作を始める。最終的に全193点となるこの作品群はいくつかのシリーズに分けられており、この「原初の混沌」は最初のもの。女性性を表す青、男性性を表す黄が多用される。《原初の混沌、WU /薔薇シリーズ、グループⅠ》No.1,2,3,5,9,10,12,15,16 1906~07年 ヒルマ・アフ・クリント財団

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<写真>「神殿のための絵画」から《大型の人物像絵画、WU /薔薇シリーズ、グループIII》1907年。女性性の青、男性性の黄のほかに愛を表すピンクが使われている。『ヒルマ・アフ・クリント展』展示風景、東京国立近代美術館、2025年

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同じころ、カンディンスキーやモンドリアンといった画家たちが抽象絵画を描き、発表し始めていた。アフ・クリントと彼ら2人は同じ、1944年に没する。アフ・クリントの抽象画は彼らに先んじていた可能性もあるにもかかわらず、カンディンスキーらが抽象画の祖とされ、アフ・クリントの抽象画は没後70年近く経ってから突然「ブーム」を迎えたように見える。このことについて展覧会のため来日したヒルマ・アフ・クリント財団のCEO、イェシカ・フグルンド氏は次のように語る。

<写真>「神殿のための絵画」から《進化、WUS /七芒星シリーズ、グループVI》1908年。ここでの「進化」は魂が高次の段階へと上昇するという意味。《進化、WUS /七芒星シリーズ、グループⅥ》No.9,11,13,15 1908年 ヒルマ・アフ・クリント財団

hilma af klintabstrakt pionjärstockholm 16 februari 2013 26 maj 2013
Foto: Moderna Museet / Åsa Lundén

「アフ・クリントの抽象画が没後初めて公開されたのは1986年、ロサンゼルス・カウンティ美術館で開かれたスピリチュアリズムに関するグループ展でした。しかし、80年代半ばにはスピリチュアル・アートの評価はあまり高くなかった。その後、2013年にストックホルム近代美術館で開かれた個展ではアフ・クリントを抽象画家として紹介しています。この個展ではアフ・クリントが死後20年、資料を封印するようにと遺言を残したことなど彼女についての魅力的なストーリーを紹介していました。またこのころは美術館が女性アーティストの作品を熱心に収集するようになった時期と重なります。そういったタイミングでそれまでとは違うアフ・クリントの側面に光をあてたことが今、大きな注目を集めるようになったきっかけになったのだと思います」

<写真>2013年、ストックホルム近代美術館で開催された回顧展での《10の最大物、グループIV》の展示風景。

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カンディンスキーは自らの抽象画を新しい芸術様式だと自認し、それまでにないアートとして売り込もうとしていた。アフ・クリントはスピリチュアリズムの影響のもとに描いた抽象的な絵画をアートだと考えていたのだろうか。

「おそらく彼女自身は、自分が描いた抽象画を私たちが考えるようなアートだとは思っていなかったでしょう。彼女にとってそれはアートというよりもスピリチュアルな存在からのメッセージを人々に伝えるためのものだったのだと思います。アフ・クリントは、自身の抽象画は同時代の人々ではなくもっと後の時代にならないと理解されないと考えていましたし、生前には神智学協会の世界会議など限られた場でしか展示していませんでした。また彼女は多くの肖像画や風景画を販売しましたが、抽象画は売っていません。アフ・クリントは抽象画によってアート界に名を残そうとは思っていなかったのです」

<写真>「神殿のための絵画」から《祭壇画、グループX》1915年。アフ・クリントは螺旋状の神殿を構想し、その中の祭壇の間を飾るものとしてこの3点の絵を描いた。『ヒルマ・アフ・クリント展』展示風景、東京国立近代美術館、2025年

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<写真>「神殿のための絵画」から《白鳥、SUW シリーズ、グループIX:パートⅠ、066 No.1》1914〜15年 ヒルマ・アフ・クリント財団。白鳥と黒鳥はアフ・クリントが熱心に研究していた男性と女性、生と死といった二元性と関係していると思われる。

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ただしアフ・クリントもノートに『理解しようと努力している』と書いているように、そのメッセージを完璧に理解していたとは考えていなかったはずだ。

「彼女にとってメッセージを伝達すること、そのための絵を描くことは大変だけれど重要な仕事でした。彼女の作品には抗いがたい魅力があります。私もそのメッセージをきちんと理解できたとは思えませんが、絵を見る人の中にたくさんの感情を巻き起こしていることは理解できます。見る人の状況によって違う感情が湧いてくるから、それぞれ違う受けとめ方ができる」

<写真>「神殿のための絵画」から《10の最大物、グループIV》1907年。幼年期、青年期、成人期、老年期の人生の4つの段階を描いたもの。東京国立近代美術館の展示では10点の巨大な絵画をぐるっと回って鑑賞できる。『ヒルマ・アフ・クリント展』展示風景、東京国立近代美術館、2025年

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<写真>《10の最大物、グループIV》。右の老年期から左の幼年期へと、生命の輪廻も思わせる展示構成。『ヒルマ・アフ・クリント展』展示風景、東京国立近代美術館、2025年

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ヒルマ・アフ・クリントが傾倒していた神智学や人智学といった思想のキーパーソンの一人にルドルフ・シュタイナーがいる。シュタイナーはもともとヘレナ・P・ブラヴァツキーらが創設した神智学協会に在籍していたが意見の相違から離脱、1912年に人智学協会を設立した。アフ・クリントはシュタイナーのレクチャーに出席したり、彼が拠点としていたスイスのドルナッハでシュタイナーと面会したりしている。アフ・クリントのノートにはシュタイナーの名が何度か登場し、彼と会ってから作風が変化するなど、アフ・クリントにとってシュタイナーは重要な存在であったことがうかがえる。しかしシュタイナーがアフ・クリントを高く評価していたという明快な記録は見あたらない。その理由についてシュタイナーはアフ・クリントに嫉妬していたのでは、といった説を唱える人もいる。しかしフグルンド氏はそれとは違う見方をしている。

「近年のリサーチではシュタイナーがアフ・クリントに対して気分を害していたとか、関わらないようにしていたというわけではなさそうだ、という説が出ています。私は単に彼が忙しかったのだろうと思っています。当時のシュタイナーはロックスターなみの人気で、大量の手紙を受け取っていました。アフ・クリントはシュタイナーからもう少し反応が欲しかっただろうと思いますが、彼にはほんとうに時間がなかったのでしょう」

<写真>シュタイナーの思想における「宇宙樹」との関連が指摘されている作品。シュタイナーは、脳が宇宙樹への入り口となって脳というミクロコスムと宇宙とマクロコスムが接続すると考えていた。《知恵の樹、W シリーズ、061 No.1》1913年 ヒルマ・アフ・クリント財団

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アフ・クリントの絵にはよく、螺旋が登場する。彼女は螺旋に特別な思いを抱いていたのだろうか。

「終わることなく続いていく螺旋は古くから永遠の象徴とされてきました。アフ・クリントもそういった一般的なモチーフのひとつとして螺旋を描いていたのだと思います。彼女の絵の特徴は形もさることながら色にあると思います。たとえばアフ・クリントにとって青は女性性を、黄は男性性を表す色であり、こういった二元性は彼女の絵に繰り返し現れます。彼女はすべてはつながっていて、男性と女性の間には違いはないけれどどちらも重要な存在であり、互いに求め合っていると考えていました」

<写真>アフ・クリントが初期に描いた螺旋階段のスケッチ。《フォルム研究、螺旋階段、光と影》1880年 ヒルマ・アフ・クリント財団

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アフ・クリントは生涯を通じて制作を続け、膨大な量の作品やノートを残した。「彼女は全身全霊で仕事に打ち込むハード・ワーカーでした。同時にとても勇気のある女性だった。あの時代に結婚せず、子供も持たずに自身の信じる道を進むのはなかなかできることではありません。その意味でアフ・クリントは極めて現代的な女性だとも思います」

<写真>「青の本、ブック4(10の最大物)」制作年不詳。「青の本」は10冊組の本に「神殿のための絵画」のほぼ全点を収録した冊子。左ページに作品のミニチュアを描き、右ページに白黒写真を貼っている。「神殿のための絵画」を体系化し、また神智学協会の関係者などに自作を紹介するために作られたと思われる。

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<写真>「5人」の集まりで描かれたと思われるスケッチブック。「evolution」(進化)と描き込まれている。


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アフ・クリントに関する研究は始まったばかりで、現在も新しい事実や解釈が次々と現れている。美術史の中での位置づけもはっきりしていない。彼女の絵そのものがとても魅力的であることはもちろんだけれど、彼女についてさまざまな事柄がこれから明らかになってくる、そのこともとても楽しみだ。

<写真>最晩年になってアフ・クリントは再び、白鳥やオウムガイなど、それ以前の作品に登場していた具体的なモティーフに回帰する。イギリスに風を吹きかける人物が描きこまれた、後の第二次世界大戦を予告するかのような絵。《地図:グレートブリテン》1932年 ヒルマ・アフ・クリント財団

ヒルマ・アフ・クリント展
会期/~2025年6月15日(日)
会場/東京国立近代美術館

公式サイト


Photo : Takuya Neda

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